ヨーガスートラ第2章32節
śauca saṅtoṣa tapaḥ svādhyāya īśvarapraṇidhānāni niyamāḥ
(シャウチャ サントシャ タパ スワーディヤーヤ、イーシュワラプラニダーナーニ ニヤマー)
「śauca(清浄) 、saṅtoṣa(知足) 、tapaḥ(精進) 、svādhyāya (自己の霊性の探究)、īśvarapraṇidhānā(神への祈念)はニヤマ(勧戒)である」
ヨ ガスートラ(その3)ではヤマ(禁戒)についてお話しましたが、今回はニヤマ(勧戒)についてのお話です。ヤマ(禁戒)の後にニヤマ(勧戒)が続くのは、 まず先に害するものを取り除いた上で、良い行いをするほうが効率が良いからなのでしょう。例えて言うならば、先に毒を吐き出させてから、薬を飲むというこ とでしょうか。日常生活の中で、私達自身の霊性を高める良い習慣を心掛けなければ、悟りに至る道を歩み続けることは難しいでしょう。
’シャウチャ’
ヨーガスートラ第2章40節
śaucāt svāṅgajugupsā paraiḥ asaṁsargaḥ
(シャウチャート スワーンガジュグプサー パライ アサムサルガ)
「外面と内面のシャウチャ(清浄)から自分の身体への嫌悪が生じ、他者と接触したいという欲もなくなる」
シャ ウチャは身体の外側と内側、そして心を清浄にすることです。アーサナは身体の調子を整え、体内に溜まった毒素や老廃物を取り除きます。プラナヤマは肺、神 経、血液を浄化します。しかし身体を綺麗にしようとすればするほど、身体というものは完全に綺麗にすることは出来ない、やがでは朽ちていくものだというこ とに気付きます。そうすると自分の身体に対しての執着は勿論、他人の身体への関心がなくなります。
心の清浄さには身体や周りの環境を清潔に 保つすることが大切です。しかしそれ以上に、怒り、憎しみ、嫉妬、嫌悪、悲観などの感情やうぬぼれ、プライド、執着、妄想、欲望、無知を心から追い払い、 常に正しい考えを持つようにすることが重要です。ある方法で悟りへの道を歩むと決めたヨギーにとって、他人と議論をしたりすることや他の方法への誘惑は、 そのヨギーの心を乱し、その道を歩むことへの妨げとなります。このことを理解始めると、自然と他人との接触を控え、自己の霊性を高めるために出来る限りの 時間を費やすようになります。
ヨーガスートラ第2章41節
sattvaśuddhi saumanasya ekāgra indriyajaya ātmadarśana yogyatvāni ca
(サットワシュッデイ サウマナシャ エカグラ インドリヤジャヤ アートマドルシャナ ヨギャトワーニ チャ)
「そして心の浄化と純化から心は快活になり、一点に集中する力が得られ、諸感覚器官のコントロールも可能となり、悟りを得るに相応しい適性が生まれる」
心 が浄化され純粋になると自然と人は明るくなり、博愛の気持ちを持つようになります。またヨガの6番目のステージである、心を一点に集中するダラーナを実践 する力が育ちます。そしてヨガの5番目のステージであるプラティヤハラ(諸感覚器官のコントロール)を完璧にすることで、7番目のディヤナ(瞑想)の実践 も可能となり、更には8番目のサマディ(三昧)に至るに相応しい適性を得ます。
’サントーシャ’
ヨーガスートラ第2章42節
saṅtoṣāt anuttamaḥ sukhalābhaḥ
(サントシャート アヌッタマ スカラーバ)
「サントーシャ(知足)から最高の幸福を得る」
サ ントーシャ(知足)は足るを知ること、与えられた現状を受け入れ、感謝の気持ちを持つことです。私達は日頃から、ないものばかりに意識を集中させ過ぎて、 既にあるもの・与えられているものに目を向けることを忘れてはいないでしょうか?現在のような物質主義の社会では、欲しいものを1つ手に入れてもまたすぐ に次に欲しいものが出てきて、私達は決して満足することが出来ません。物以外でも、私にはこれが出来ない、あれが出来ない等、自分自身を責めたり、周りの 環境のせいにしてしまいがちです。しかし「本来の自分」である「純粋意識」は完璧な存在で何かが欠けていたり、足りないものありません。私達に必要なもの は既に全て与えられています。また必要でないものは自ずと私達から去っていき、それらを追ったり、執着する必要はないのです。本当に必要なものと欲しいも のの区別がしっかりと出来るようになると、この現実が見えてくるでしょう。必要なものは全て与えられていることを理解すると、自然と感謝の気持ちが出て来 て、日々の生活が楽しく、幸福に満ちたものになるでしょう。
’タパス’
ヨーガスートラ第2章43節
kāya indriya siddhiḥ aśuddhikṣayāt tapasaḥ
(カーヤ インドリヤ シッディ アシュッディクシャヤート タパサ)
「タパス(精進)は不純物・不純性を取り除き、身体と諸感覚器官を完全なものにする」
タ パスのタプは”焼く、焦がす、輝く、痛み、苦しみ”等の意味があり、タパスはどんな状況下でも身を焦がすような努力をすること、精進することです。欲望や 感情と言った不純物・不純性は最終目的である悟りに至る妨げとなるため、それらを燃えるような努力で焼き尽くします。努力していることすら意識せずにただ ひたすら鍛錬することが望ましく、自分自身を虐待したり、成果に執着して努力することは望ましくありません。
タパスには、身体、言葉、心の 3種類があります。身体面でのタパスでは身体を清潔に保ち、身体の健康を損なうことを避けます。また諸感覚器官が生み出す感覚に振り回されないように、諸 感覚器官をコントロールします。言葉のタパスでは、他人を中傷したり、悪口や陰口を言わない。また結果にこだわることなく真実を語りることです。心におけ るタパスでは、心の悪い癖やパターンに気付き、それらを改めることです。またどんな状況であっても常に心の平穏を失わないようにすることです。自分自身に 対しても他人に対しても思いやりと許す心を持ち、そして神に対するゆるぎない信仰心を持つことです。
無意識に行ってしまう行為は結果的に私 達を苦しめます。そのような行為を燃えるような強い意志でもって克服することが出来れば、私達は諸々の苦しみから解放されます。そうすれば心身の働きと人 格は自然と高まり、私達はどんな逆境にも負けることがない、すさまじいエネルギーと力を得ることでしょう。
’スワディヤーヤ’
ヨーガスートラ第2章44節
svādhyāyāt iṣṭadevatā saṁprayogaḥ
(スワディヤーヤート イシュタデワター サムプラヨガ)
「スワディヤーヤ(自己の霊性の探求 )により、崇める至高の存在が姿を現す」
ス ワディヤーヤのスワは”自己”、アディヤーヤは”教育する、学ぶ”という意味があります。スワディヤーヤは「自己の霊性の探求」、また経典(ヴェーダ、ウ パニシャッド、バガヴァッドギータ、パタンジャリのヨガスートラ等)を学ぶことです。経典を学んだり、自己の霊性の探求を深めることにより、自分、社会、 世界に対する無知は取り除かれ、正しい考えが心を占めるようになります。自分自身の内なる神性に気付き、そして全ての存在が尊く、神聖なものであることを 理解し、全てのものに内なる神性を見るのです。
’イーシュワラプラニダーナ’
ヨーガスートラ第2章45節
samādhisiddhiḥ īśvarapraṇidhānāt
(サマーディシッディ イーシュワラプラニダーナート)
「イーシュワラプラニダーナ(至高への存在に全てを受け渡すこと)によりサマーディ(三昧)が得られる」
イー シュワラは”神、至高の存在”、プラニダーナは”明渡す、委ねる”という意味があります。イシュワラプラダーナは全ての根源であり、宇宙を動かしている存 在を完全に信頼し、自分の全てを明け渡すことです。スワディヤーヤでは、経典や自分自身についての学びを深めるにつれて、自分を含めた全ての存在が神聖な ものである、イーシュワラの現れであることを理解します。イーシュワラプラニダーナでは、私達の全ての行為をイーシュワラに捧げるような気持ちでもって行 うことの必要性を謳っています。
5 つのヤマ(禁戒)とスワディヤーヤを含めた他4つのニヤマ(勧戒)を実践することなく、イーシュワラプラニダーナ の実践は難しいでしょう。ヤマとニヤマの実践を踏まえたうえでイーシュワラに全てを委ねると、世俗的、感覚的な欲望や誘惑から自由になります。何かを期待 したり、心配したり、恐れたりすることもなくなります。離欲、無執着(ヴァイラーギャ)の心の力でもって初めて、サマーディ(三昧)に至ることが出来るの です。
中川 陽子